瞑想ってむずかしそう。。できるのかな?っと、なかなか、体験するまでに
躊躇される方も多いようですが・・・
瞑想って?
坐って姿勢を整え(調身)、呼吸を整え(調息)、心を整える(調心)。
つまり、瞑想という行為は静かに坐っていることと言われていますね。
静かに坐って、自分を見つめる。
その行いによっていろんなことが明らかになってくる。
それがひとつの瞑想の形です。
そうして、今自分がここにいるということは、
一体どういうことなのかをはっきりと観ようとします。
そうしてその結果、何が本当なのかを見破ること。
そうして、自分は丸出しのそのまま・あるがままであることを知り、
その尊さや壊れない喜びを体験することとなります。
また、坐る瞑想にもいろんな形態があり、瞑想はとても実際的な側面も持っています。
例えば、自分自身に制限を作って、そこから出られないようにすることで、
苦しみを自分に与えていないか?
もし、そうならどんな条件付けが在るのか・・
こうあるべき、、とか、、こうならなければ。。とか。。
また、自分の中にあるいろんな反応の原因をみたりします。
そうすることでどんどん解放されていく。
また時には、自分は何をしたいのか、自分にとっての幸せは本当はどんなことなのか?
納得が起きるまで、ジャッジせずに、考え続け、そして気づきに到達します。
しかし、、坐ってなくても、いつでも瞑想をすることができます。
歩いている時も、ご飯を食べている時も、瞑想はできるのです。
なぜなら、何をしていても、いつでもそこには生きているとう真理しかないのが現実・・・。
手法はいくつかあります。
(1)止の瞑想(シャマタ瞑想):何かの対象に意識を向け、それと一体化する方向に進む。
(2)観の瞑想(ヴィパッサナー):自分に意識を向け、判断/分析のない広い意識で観察する。
(3)分析瞑想:様々な事項に関して集中し、考え抜くこと。坐って哲学する。
(4)無概念の瞑想:何の概念なしにただ在る。
こうした手法をその場、時、その人の状態に合わせ、実践していきますが、
はじめての瞑想なら、(4)の無概念の瞑想がおすすめです。
いずれにせよ、どの瞑想法も、
結果は期待せず、自分を変えようともせず、ただただ実践します。
そうして、自分がどんどん変化していきます。
変えようとするのでもなく、変わらないからといって、焦る必要もなく、、
勝手に変化は起こってきます。
そして真理というのは、「自分」が知るのでは在りません。
あちらから自然とやってくる。
これについて、道元禅師の正法眼蔵- 「現成公案」からの一節を。。。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす
万法すすみて自己を修証するはさとりなり
この自我としての「自分」が覚ろうとして、修行し、それがわかったというのは錯覚である。
なぜなら、自我はいくらあがいてもそれ自体が概念という迷妄であるから。
それは命の本当のところでない。だから、迷いがある。
本当のところは、ものごとが真理を示し、
この「自己」とは何かが示されることがおきるのです。それが覚りである。
自分というのは、とても面白い存在です。
それに興味を持ち、積極的に関わり、自分にとっての真理をつかみ取ります。
瞑想はそういう意味で、積極的に自分のいのちを知り、自分が自由であることを知り、
寄り添って、それを楽しみ、人生をいきいきと生きる状態になってしまうためのもの。
そこにある「いのち」に自然とぴたーっとひとつになり、その命が生きるように
無為自然に生きること。
自分を生きることを実践する本番。
それがマットの上であり、坐布の上であり、そして毎日の生活です。
瞑想は、生きていることの豊かさ、人生を本番で生きることのうれしさを教えてくれます。