「分」
私が大好きな詩に「雨にも負けず」宮沢賢治 があります。
小学生のころ、、暗記させられたので、今でも暗証できますが、
小学生だった私が、この詩の意味をわかるまで、少し時間がかかりました
今でこそ、この宮沢賢治についての知識も増え、彼がこの詩を書いた真意を
以前よりは、しっかりと読み取ることができるようになりました。
しかしながら、小学生だった私も、この詩を読んでから、
この詩に託されている想い、彼の理想とする生き方に対して、
あこがれ?のようなものを持っていました。
このような、心を持てる人になったら、きっと、人として、幸せなのではないか知らん?っと。。
お金持ちになることとか、地位や名誉をもつことが、幸せだとは、
はなっから、思っていなかった小学生だったため。。(笑)
彼のこの「雨にも負けず」は、、ひとつの私の理想的生き方の模範的なものとして、
頭の中に、ずっと、残っていたのですが。。
最近、私は「分」をわきまえる、、という日本語、、をよく、自分に対して使っています。
「分」とは。。
・全体を分けた一部
・備え持った能力の程度
・つとめ
の3つです。
かなり一元論的なお話しになってしまいますが、
ヨーガでは「私」というものは、「宇宙」という全体の一部であると教えます。
多くの人の一般的な感覚では、私たちは宇宙の中に存在し、
宇宙の中で生きているのであって、宇宙の一部という感覚はありません。
ただヨーガでは、宇宙というのは例えれば空に浮かぶ雲のように、
ふわふわと絶え間なく移ろう存在、または悠々と流れる大河のような存在であり、
それを全体とするならば「私」というのは雲の端切れ、あるいは五木寛之さん風に言うならば
大河の一滴ということになります。
ですから、この考えにもとづいて言えば、「私」という存在は宇宙の一部分、
つまり「分」であると言えます。
多くの人は「私」と「私以外」を皮膚という境界線で分けて区別しているわけですが
ヨーガではその区別にあまり大きな意味を置かず、全体の中でその一部として
「私」という存在を捉えているということです。
このニュアンスは、もう少し規模を小さくして例えると分かりやすいです。
例えば、私たちの身体全体を「全体」とするならば、胃袋という分、腸という分、
血管という分など、多くの分に分けることができます。
このとき、胃袋が私たちの身体の中に住んでいる、
腸が身体の中で生きているという捉え方はしないはず。
全体の中でバランスよく機能している各部分があるのであって、
その1パーツだけを可愛がったり、他を犠牲にしてまで特定の部分に
栄養を与えたりはしないはずです。
この人体における各臓器のように、
ヨーガでは「私」という存在は、
宇宙の中に「住んでいる」のではなく、宇宙の「一部分」であるという捉え方をするわけです。
全体をスライスして部分にしていく。すると、その一切れ一切れ(表現悪いですが。。)には
「備え持った能力の程度」というものが生じてきます。これが分の2つ目の意味です。
人体の例で言えば、胃袋には胃袋が持つ能力、腸には腸の能力、腕には腕の、
脚には脚の能力の差が生まれます。
全体を部分に分けていくわけですから、様々な偏りが生じ、
当然能力にも偏りというか差が生じるわけです。
ヨーガでは、私たち一人ひとりも同じであると考えます。
私たちは一人ひとり個性的であり、誰一人として同じ人は存在しません。
例えDNAが同じ双子であったとしても、その一人ひとりは実に個性的で能力の差を持っています。
それはもう毎日見ているので間違いはありません(笑)。
でも多くの人は他人を羨み、妬み、そして自分に嫌悪し、時として絶望します。
全体をスライスして部分があるわけですから、能力の差があって当然なのですが、
その差にばかり心を奪われ、絶望してしまうことが多いのです。
全体の中の一部という発想の中では、この絶望感は実に無意味です。
腕が脚の頑丈さを羨んだり、脚が手の器用さを妬んだり、
胃袋が腸の長さに引け目を感じたり。。。
私たちはみんな違います。間違いなく私たちは皆、
違う能力を持って生まれてきているのです。
だからそれぞれの「つとめ」があるのではないでしょうか。
頑丈だから担えること、器用だから務まること、長いが故に為せること。
これが分という語が持つ3つ目の意味です。
全体の一部だから能力に差があり、差があるからこそ務めがある。
皆さんの個性、能力、そして「つとめ」は何ですか?
ヨーガでは「私」とは「宇宙」という全体の一部だと教えます。
ただ、いきなり宇宙という最も大きな単位を突きつけられると、
ハイそうですかで終わってしまったり、だから何ですかと言い返したくなったり、
今一つ「分」という感覚が実感できません。
でも「宇宙」の一部である地球、あるいは日本、もっと小さな単位で県や市、
さらには会社、家族、サークル、チームといった身近な部分に分けてみるとどうでしょう。
ちょうど胃袋が無数の細胞から構成されているように、
私たちは部分のまた部分であると考えることができ、
まずは自分が属している単位での「分」を実感してみると、
少しピンとくるのではないでしょうか。
その自分が属する「全体」の「一部分」としての自分を自覚し、
そして他の構成員(またもや表現悪いですが。。)とは違う、
とても個性的な能力を自分は持っていて、だからこそ自分が為すべきこと「つとめ」がある。
個性や能力の違いは優劣ではなく、できることの違いであり、つとめの違い。
そう考えることで、自分自身を丸ごと受け入れ、そして自分とは違う相手を丸ごと受け入れ、
そしてその中で何ができるのかなという姿勢で生きていくことができる。
日本語的に言うならば、そんな「分」をわきまえて生きることこそが、
まさにヨーガが目指す境地であると思っています。
結論はとてもシンプル。
分をわきまえて生きること。
OM Shanti
ぽちっと御願いします。
「雨ニモマケズ」
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい