最近、いじめ・登校拒否など、、子供達の置かれている環境が
大人世界と同様に苛酷な環境。。。というのは、もう、長年、ニュースや実際に周囲でも
起こっているできごとで、、そんな話が、
先日、友人とあった折に、話題となりました。
いじめや、登校拒否などは、子供だけでなく、親御さん達もとても、心を痛め、
そして、どう対処してよいのかわからなくなってしまうのではないかと思います。
スクールカウンセラーや、心療内科なども
現在は、いろいろな対応してくれる場所があります。
実は、わたしの妹も 高校生活の半ばから、引きこもりになりました。
どうやら、学校でいじめにあっていたようです。
もともと、とても、明るくクラスの中心的な存在だった彼女の変化に、
家族は動揺し、どうしたらよいのか、あわてふためきました。
30年以上前の話なので、今のような陰湿ないじめではなく、
仲間はずれにされた・・(他にも、理由があったのかもしれませんが)というものだったのですが、
彼女にしてみれば、、学校というものが彼女の世界。そこで孤立してしまったわけで、
かなりのショックを受けたのでしょう。
それから数年間、靴をはくことがなく、、過ごしていた彼女は、ある日、すこしずつ、
外にでるようになり、、、今では3人の子供の太っ腹カアサンになっています。
しかし、今振り返ると、本当に、彼女も、そして、周囲の家族も、
皆が、、心を痛め、とても、大変な時間を過ごしたな。。っと思うのです。
でも、そういう時期、、私は母の愛の大きさを身にしみて感じました。
実際に母だって、かなり動揺していたと思いますが、、彼女をせめることなく、
時期をまっていた。。そして、何より、信じていたのだと思います。
皆が多忙なスケジュールを調整し、チケット手配、旅館の手配、電車の手配などに紛争し、
旅行に誘って,行くことが決定して、みなが、安堵していた矢先、、当日になって
行きたくない、、部屋から出てこなくなり、、そんなことが何度もあり、
家族の落胆は、毎度、、大きく。。しかし、それでも、母は、大きな声を出さず、そして、
怒らず、、彼女が、いつか、部屋から出てきてくれることを、信じていたのだと思います。
妹本人も、、どこへ向かえば出口があるのかもわからずに、迷い道から抜け出せず、
とても、苦しんでいたのだと思います。
しかし、母の、無償の愛 という ドアの光が、彼女を再び、外へと導いたのでは
ないかと、今となっては思います。
ひとつだけ、母がすごいなっと思った理由。。。
彼女は、仲間はずれにしていた生徒達(元々は仲の良い友達)に対して、
一応は,学校に問い合わせをして、そのことを知ったわけですが、
妹に、そのことを聞きませんでした。
たぶん、母は、もう、その友達がどうした、、こうしたということではなく、
妹の中に存在した、心の状態を人として、全うに処理してほしいと願っていたようでした。
確かに仲間はずれした人たちは、ひどい。。しかし、妹の心の中に、
その人たちを恨む気持ちだけではなく、悲しみや、ショック・怨み。・・
そういった感情を、自分自身で乗り越える力を持ってほしいっと思っていたようです。
そのためには、もちろん、母は、彼女へのサポートは惜しみなくしたのだと思います。
母は強し。。実際、かなり、大変な思いをしたと思うのですが。
妹の子供達は、とても、明るく、そして、とても、思いやりのある
青年達に育ちました。(贔屓目ですけどね。。弱きを助け,,強気を。。なタイプです。)
彼女の経験が彼らに伝えたこと。。。彼女自身が
自分自身で乗り越えて、得たものだったのだと思います。そして、それは、
母の愛があればこそだったと思います。
【お釈迦様と悪口男】
あるところに、お釈迦様が多くの人たちから
尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。
「どうして、 あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。 いまいましい。」
男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせるための
作戦を練っていました。
ある日、その男は、お釈迦様が毎日、同じ道のりを
散歩に出かけていることを知りました。
そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、
群集の中で口汚くお釈迦さまをののしってやることにしました。
「お釈迦の野郎、きっと、 おれに悪口を言われたら、 汚い言葉で言い返してくるだろう。
その様子を人々が見たら、 あいつの人気なんて、 アッという間に崩れるに違いない」
そして、その日が来ました。
男は、お釈迦さまの前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。
お釈迦さまは、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。
弟子たちはくやしい気持ちで、
「あんなひどいことを言わせて おいていいのですか?」
とお釈迦さまにたずねました。
それでも、お釈迦さまは一言も言い返すことなく、
黙ってその男の悪態を聞いていました。
男は、一方的にお釈迦さまの悪口を言い続けて疲れたのか、
しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。
どんな悪口を言っても、お釈迦さまは一言も言い返さないので、
なんだか虚しくなってしまったのです。
その様子を見て、お釈迦さまは、静かにその男にたずねました。
「もし他人に贈り物をしようとして、 その相手が受け取らなかった時、
その贈り物は一体誰のものだろうか?」
こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。
「そりゃ、言うまでもない。 相手が受け取らなかったら
贈ろうとした者のものだろう。 わかりきったことを聞くな!」
男はそう答えてからすぐに、
「あっ」
と気が付きました。
お釈迦さまは静かにこう続けられました。
「そうだよ。今、あなたは 私のことをひどくののしった。
でも、私はそのののしりを 少しも受け取らなかった。
だから、あなたが言ったことは すべて、あなたが受け取ることに なるんだよ」
世の中には嫌な奴など、どこにでもいますね。嫌味を言われたら、
その言葉を受け取らずに、送り返してあげればよいというわけです。
お釈迦様は、遠まわしに
「因果応報の法則」を男に教えてあげたのです。
これが
「言向け和す」ということです。
このように、さまざまな試練を通して、
いろいろな気付きが得られるかもしれません。
結局は、自分自身が成長するために、その問題を引き寄せていたことに気が付けば、
そのことが学びとなり、次のステージに上がれることになります。
引きこもりなどの大きな試練には、実は自分自身が人間的に飛躍できる、
大きなチャンスが潜んでいるんですね。
神様は、その人に乗り越えられない試練は、決して与えることはないと言います。
その試練の裏には、どんなチャンスや学びが潜んでいるのでしょうか?
このことに子供さん自身が気が付けば、自ずと社会復帰していくことでしょう。
そのためのヒントや助言は、やはり親御さんが教えてあげるべきなのではないでしょうか。
もしかすると、親御さんにもこのことが、何かの気づきとなるチャンスかもしれません。
ぽちっと御願いします。