ヨガというのは、平たく言えば「理想的な状態に至るための方法論」のこと。
そこに至るために、ただ坐ってみたり、背骨の中のエネルギーの通りを良くしてみたり、
あるいは奉仕活動を行ったり、神様にお祈りしたり、哲学書を読んでみたり、
様々なアプローチがあり、そのすべてがヨガなのです。
そんな訳ですから、
ヨガというものはあらゆる考えやテクニックを吸収し、
無限に進化していく可能性を持っているのです。
にも関わらず、私たちが、そのアプローチ方法を細かく分類して、
名前をつけることで、ここはこうしなくてはいけない、このスタイルではこういうルールが
あるといった、妙な制約なんかが出てきてしまい、
それが本来のヨガの目的をぼやけさせる一因になっている気がしなくもありません。
月を指せば指を認む
これは有名な仏典の一句なのですが、
仏教では、私たちが目指す境地を 「月」 に、
そこを指し示す方法論である教理や経典を 「指」 に喩えます。
多くの仏教の師は、その境地を伝えたくて様々な経典を書き、
そして説法を説いてきた、それが 「月を示す指」 なのです。
ところが、多くの人がその指ばかりに囚われてしまい、
例えばですが、その指の曲げ具合は間違っているとか、
この流派では人差し指ではなく中指を使うとか、そういった指に関する
議論でごちゃごちゃしてしまい、あれは間違っているとか、
これが正しいとかいうことになったりします。
恐らく、仏教にしてもヨガにしても、同じ 「月」 を指差しているんだと思います。
だから、いろんな「指」を見つつ、自分自身で月を指差し、
そして月を見ることが大切なんじゃないかなと思うわけなのです。
わたしは、「この人は自分の生徒さんだ・・」というのは好きではありません。
その人は、自分から何かしらヨガの極一部のものを学んだだけであり、
それだけで自分の生徒という呼び方はしたくないと思っています。
みなさんも、いろいろな方法で「月」を目指してみてくださいね。
ぽちっと御願いします。