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2012年11月1日木曜日

瞑想とは?







瞑想ってむずかしそう。。できるのかな?っと、なかなか、体験するまでに
躊躇される方も多いようですが・・・


瞑想って?


坐って姿勢を整え(調身)、呼吸を整え(調息)、心を整える(調心)。



つまり、瞑想という行為は静かに坐っていることと言われていますね。


静かに坐って、自分を見つめる

その行いによっていろんなことが明らかになってくる。

それがひとつの瞑想の形です。

そうして、今自分がここにいるということは、

一体どういうことなのかをはっきりと観ようとします。

そうしてその結果、何が本当なのかを見破ること。

そうして、自分は丸出しのそのまま・あるがままであることを知り、

その尊さや壊れない喜びを体験することとなります。

また、坐る瞑想にもいろんな形態があり、瞑想はとても実際的な側面も持っています。

例えば、自分自身に制限を作って、そこから出られないようにすることで、

苦しみを自分に与えていないか?


もし、そうならどんな条件付けが在るのか・・

こうあるべき、、とか、、こうならなければ。。とか。。

また、自分の中にあるいろんな反応の原因をみたりします。

そうすることでどんどん解放されていく。

また時には、自分は何をしたいのか、自分にとっての幸せは本当はどんなことなのか?


納得が起きるまで、ジャッジせずに、考え続け、そして気づきに到達します。



しかし、、坐ってなくても、いつでも瞑想をすることができます。


歩いている時も、ご飯を食べている時も、瞑想はできるのです。

なぜなら、何をしていても、いつでもそこには生きているとう真理しかないのが現実・・・。


手法はいくつかあります。

(1)止の瞑想(シャマタ瞑想):何かの対象に意識を向け、それと一体化する方向に進む。

(2)観の瞑想(ヴィパッサナー):自分に意識を向け、判断/分析のない広い意識で観察する。

(3)分析瞑想:様々な事項に関して集中し、考え抜くこと。坐って哲学する。

(4)無概念の瞑想:何の概念なしにただ在る。

こうした手法をその場、時、その人の状態に合わせ、実践していきますが、

はじめての瞑想なら、(4)の無概念の瞑想がおすすめです。

いずれにせよ、どの瞑想法も、

結果は期待せず、自分を変えようともせず、ただただ実践します。

そうして、自分がどんどん変化していきます。
変えようとするのでもなく、変わらないからといって、焦る必要もなく、、

勝手に変化は起こってきます。

そして真理というのは、「自分」が知るのでは在りません

あちらから自然とやってくる。

これについて、道元禅師の正法眼蔵- 「現成公案」からの一節を。。。


自己をはこびて万法を修証するを迷とす

万法すすみて自己を修証するはさとりなり


この自我としての「自分」が覚ろうとして、修行し、それがわかったというのは錯覚である。
なぜなら、自我はいくらあがいてもそれ自体が概念という迷妄であるから。
それは命の本当のところでない。だから、迷いがある。 
本当のところは、ものごとが真理を示し、
この「自己」とは何かが示されることがおきるのです。それが覚りである。




自分というのは、とても面白い存在です。

それに興味を持ち、積極的に関わり、自分にとっての真理をつかみ取ります。

瞑想はそういう意味で、積極的に自分のいのちを知り、自分が自由であることを知り、
寄り添って、それを楽しみ、人生をいきいきと生きる状態になってしまうためのもの。

そこにある「いのち」に自然とぴたーっとひとつになり、その命が生きるように
無為自然に生きること

自分を生きることを実践する本番

それがマットの上であり、坐布の上であり、そして毎日の生活です。

瞑想は、生きていることの豊かさ、人生を本番で生きることのうれしさを教えてくれます。