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2014年2月11日火曜日

命をしっかり生きる@ヨガ



最近、瞑想をされている方も多くなってきました。
わたしのまわりだけかな?

毎月の瞑想会にはじめて参加してくださる方も、
ご自宅で、されてます。。とおっしゃる方も結構います。

私は子供のころに、お寺の座禅会の会員?(子ども会です)に
なっていたので、、座禅をするのが、わりと日常であったのですが、
まわりの友達に、座禅をしている子供は。。おりませんでした(笑

ヨガが世界でブーム?となりまして、、本当の意味で、ヨガをしているかといえば、
そうではなく、エクセサイズ的要素が強いものが多くなっているのも、
世の中の風潮です。

そもそも、ヨガから見出すものは、ひとそれぞれではないかと思っています。

ただ、、残念ながら、エクセサイズの域を出ない部分であれば。。
それはヨガ的な運動をしているということですが、、
それでも、、体を動かす気持ちよさ・・そこから、自分の体を知ること、、
につながっていけば、、多少。。己を知る・・ということにもなっていくのではないかと
思います。

それぞれに時があり、、今、そうでないにしても、そのうち、その人の時が来た時に、
どのような扉を開いていくのか。。それも、とても、楽しみではあります。

ヨガをしていく上で、、体を知ることだけでなく、自分の心の状態を知ることも
ひとつのヨガです。

その方法のひとつとして、瞑想はよい方法でしょう。
ただ、この瞑想は、二元論。すなわち、自分自身から、離れていくというものなので、
己を知るということと相反するかもしれませんが。
実際のところ、一元論と二元論は、、まったく、同じところから・・まわりまわって、
同じところに着地する・・・・・・・のでは、っと感じています。

日々生活していく中で、色々な概念に囚われ、自分の形をがその概念によって、
しばりつけてしまっているような、世の中になっているように思います。

間違った形かもしれないし。。もっと、違う形へ変化せねばらないのに、
そこにとどまることに拘りすぎているのかもしれません。

その概念から、解き放つ為に、、瞑想はよい方法であると思います。

是非、瞑想してみてください。。ただ、そこに座るだけ。目を閉じて、呼吸するだけ・・。


瞑想とは?

瞑想ってむずかしそう。。できるのかな?っと、なかなか、体験するまでに
躊躇される方も多いようですが・・・


瞑想って?

坐って姿勢を整え(調身)、呼吸を整え(調息)、心を整える(調心)。

つまり、瞑想という行為は静かに坐っていることと言われていますね。

静かに坐って、自分を見つめる。

その行いによっていろんなことが明らかになってくる。

それがひとつの瞑想の形です。

そうして、今自分がここにいるということは、

一体どういうことなのかをはっきりと観ようとします。

そうしてその結果、何が本当なのかを見破ること。

そうして、自分は丸出しのそのまま・あるがままであることを知り、

その尊さや壊れない喜びを体験することとなります。

また、坐る瞑想にもいろんな形態があり、瞑想はとても実際的な側面も持っています。

例えば、自分自身に制限を作って、そこから出られないようにすることで、

苦しみを自分に与えていないか?


もし、そうならどんな条件付けが在るのか・・

こうあるべき、、とか、、こうならなければ。。とか。。

また、自分の中にあるいろんな反応の原因をみたりします。

そうすることでどんどん解放されていく。

また時には、自分は何をしたいのか、自分にとっての幸せは本当はどんなことなのか?


納得が起きるまで、ジャッジせずに、考え続け、そして気づきに到達します。



しかし、、坐ってなくても、いつでも瞑想をすることができます。


歩いている時も、ご飯を食べている時も、瞑想はできるのです。

なぜなら、何をしていても、いつでもそこには生きているとう真理しかないのが現実・・・。


手法はいくつかあります。

(1)止の瞑想(シャマタ瞑想):何かの対象に意識を向け、それと一体化する方向に進む。

(2)観の瞑想(ヴィパッサナー):自分に意識を向け、判断/分析のない広い意識で観察する。

(3)分析瞑想:様々な事項に関して集中し、考え抜くこと。坐って哲学する。

(4)無概念の瞑想:何の概念なしにただ在る。

こうした手法をその場、時、その人の状態に合わせ、実践していきますが、

はじめての瞑想なら、(4)の無概念の瞑想がおすすめです。

いずれにせよ、どの瞑想法も、

結果は期待せず、自分を変えようともせず、ただただ実践します。

そうして、自分がどんどん変化していきます。
変えようとするのでもなく、変わらないからといって、焦る必要もなく、、

勝手に変化は起こってきます。

そして真理というのは、「自分」が知るのでは在りません。

あちらから自然とやってくる。

これについて、


道元禅師の正法眼蔵- 「現成公案」からの一節を。。。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす

万法すすみて自己を修証するはさとりなり

この自我としての「自分」が覚ろうとして、修行し、それがわかったというのは錯覚である。

なぜなら、自我はいくらあがいてもそれ自体が概念という迷妄であるから。
それは命の本当のところでない。だから、迷いがある。 

本当のところは、ものごとが真理を示し、この「自己」とは何かが示されることがおきるのです。それが覚りである。




自分というのは、とても面白い存在です。

それに興味を持ち、積極的に関わり、自分にとっての真理をつかみ取ります。

瞑想はそういう意味で、積極的に自分のいのちを知り、自分が自由であることを知り、
寄り添って、それを楽しみ、人生をいきいきと生きる状態になってしまうためのもの。

そこにある「いのち」に自然とぴたーっとひとつになり、その命が生きるように
無為自然に生きること。

自分を生きることを実践する本番。

それがマットの上であり、坐布の上であり、そして毎日の生活です。

瞑想は、生きていることの豊かさ、人生を本番で生きることのうれしさを教えてくれます。

是非、、、生活の中で瞑想してみてください。



3月瞑想会お知らせ
3月14日(金)10時~11時30分
3月15日(土)17時30分~19時

参加費300ドル
場所 銅鑼湾 ベネッセンス
詳細はこちらから 



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