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2013年2月13日水曜日

「仏様の慈悲」










自分が小さかったころ(子供時代)に、

お寺に通って、座禅をさせていただいた時に、
時々、大人に混じって、法話を聞かせていただくことがありました。

小学生のころは、意味がわからないことも多かったのですが、
高校生くらいになっていくと、しっかり、心に残っているのか、
日記につけていたものがあり、最近、読み返しています。

ちょうど、思春期のころだったのだと思います。

色々な思いや疑問・迷い、そういったものを感じる年頃ですよね?
私は早熟だったのか、小学生くらいのころから、そういったことで、

いつも、頭がいっぱいでした。人生とは何だとか、なぜ生きるのか!とか・・・

高校生になると、それは、もっと、深く、そして、もっと重く、

自分の心の中で渦巻いていましたので、
法話を聞かせていただくことで、時に、気づきを得ることも度々あったと記憶しています。


そんな中から、ひとつ。

その日のタイトルは、「仏様の慈悲」
(これが、、漢字が分からなかったからか、ひらがなでした笑)

※一部、文章になっていない(字が汚くて。。)部分があったので、
わたしなりに解釈して書き添えています。

人は一人では生きていけない。
でも、人と人が関わっていくのも、決して簡単ではない。
時には、「もう、誰とも会いたくない」と思うこともあります。

イライラしたり、心のバランスが崩れそうになったときに、私は(←お坊さん)
お寺の近くの山に登ることにしています。

春の彼岸のころです。山登りの途中、若葉を芽吹く、木々の間をとおりぬけ、

人間の存在に驚いた鳥達が、あわてて飛び立ちます。
桜並木を通って、頂上につくと、パノラマの景色が展開されていました。
眼下には、マッチ箱を置いたように建物が立ち並び、山地の山並みも横へ、

前にも、広がります。
そんな風景を見ていると、人間なんて小さな存在なのだと気づくことが出来るのです。

「小さな事は気にしないで、もっとゆったりと生きていきましょうね。

あなたは人間社会にだけ生きているのではない、

もっともっと、大きな自然に囲まれて、
 

大自然
に抱かれて生きているのだよ」


と語りかけてくれます。

この大自然こそが仏様の正体 

悩んでも苦しんでも、私たちは仏様の掌の上から、
零れ落ちることはありません。

~~~~~~~~~~~~~~

ヨガにはインドで出会いました。

ただ、なぜ、インドだったのか?ヨガだったのか?、、と考えてみると、、

子供のころに、心に持っていた疑問や思いが、
成長しておとなになっていき、忙しさ、周りの環境などで、段々と、

考える時間がなくなりました。

そんなときに、病気をきっかけで、インドにいったことで、
(はじめから、ヨガのためではなく、仕事で。。)
また、あのころと同じ、空間にもどされた気がしていました。

こんなに年をとった今でも、

あのころと同じことに答えを見出せないことがたくさんあります。

人間というのは、とても、複雑に出来ていて、わたしは、さっぱりわかりません。。

ですが、、ヨガのアサナや瞑想などのツールを通して見えてきたものがあります。

目に見えるものだけでなく、五感で見る・感じるということのほうが、
本当の姿や形が見えてくる
ということです。

誰もが、自分の都合を中心とした囚われやこだわりに、

振り回され、身動きができなくなってしまいます。

「仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり」と曹洞宗の聖典である

『修証義』には説かれています。
仏や祖師方は、私たちの囚われ・こだわりから発する苦しみを

憐れむ余り
仏の道を歩むための入り口を大きく開いて


お待ちいただいている、


といった意味です。

私たちは、
自分の習慣や固定観念に囚われ・慣れ・こだわりから発する苦しみ
をもってしまうのだと修証義では、説いています。
その囚われや慣れ・こだわりからの苦しみを哀れみ、
仏や祖師方が「一切衆生を証入せしめんがためなり」
(くまなくすべての人々を悟りの道に導きたいためなのだ)

という尊い願いによって、せっかく私たちのために開いてくださった、

慈しみに満ちた真実の道の入り口である「広大の慈門」をくぐらないのは、

価値ある人生を歩むという点でも、仏祖に申し訳ないことです。

一度は、その門から外にでてしまっても、いつでも、その門は開いています。

わたしも、そうして、また、門をくぐることが出来たのかもしれませんが、、
時々、また、出てしまいます  


どうか、
皆さんも、今の自分が、
自分の都合を中心とした 囚われ・慣れ・こだわりで
がんじがらめになりませんように

ご自分の心の目で、周りをそして、ご自分を見てください